「生死一如」生も死も等しく大切であり、死を見つめ準備することで、生が充実するという教え。
命は巡り巡っている。その輪廻を表現しました。 命は巡り、大いなる力の元、生を受け、そして死に返る。それを、動植物たちは、よくわかっている気がします。
羊、鶏、鴨、駝鳥、熊、牛、株梗木。 命をいただき、私たちは生きている。 どんなものも、生きているのだから、それを、奪うのだから、感謝して、食べつくして、生きねばならない。 糧として食べて、誰かの糧となって死ぬ。 その巡る命を表現しました。
猫は不思議な生き物で、死者の国にも、片足を突っ込んでいる気がする。 生も死も持っている、不思議な目をしている。 だから、生と死、両方を盛り込んで、描きました。 生も死も持った、不思議な私の猫。
猫は不思議と、案内をしてくれる気がします。 こっちだよ、と。 生き迷ったモノたちを、そっと。
死んだら無になるのだとしても、生きている人、残された人の心の中には、きちんとその人の魂が存在します。 それを心の支えにしたり、指針にしたり、語り掛けたりして、ヒトは生きる。 だからこそ、きちんと生きなければならない。
世界は全で、私たちはきっと一。 私たちは個性を獲得する代わりに、孤独をも獲得してしまった。 他者を理解することはできない。 それでも世界に蕩ける瞬間まで、分かり合う努力をしたい。
生命力を糧に、もし見えない花が咲いたなら。 それはきっと、とても美しいに違いない。 生命力を喰い尽くし、私たちを殺すのだとしても。
導くもの。 私が迷うとき、導いてくれる、私の幽霊。
私を導く、私の幽霊。 ネコはきっと見えている。見ている。見えないものを、きっと見ている。
骨は死を、過去を、現在を、未来を、物語っている。 一見不変の、存在です。 その美しさと、その力強さは、どこか森に似ている。 森の中の、一本の大木のように、思えるのです。
サイは、死期を悟っている。 それでも受け入れて、静かに時を過ごしているのだとしたら、その心は、どこまで凪いだものだろう。 静かに死を待つ瞬間。 穏やかでいられるでしょうか。
骨の台座の上に座るモノが、花である訳もない。 それもまた、孤独を抱えた骨である。
「見えないもの」概念。思念。ヒトの世の理のような、大切なもの。忘れてはならないもの。
猫は何を考えているのだろう。その瞳の奥には、何があるのだろう。 それを覗いてみたいのだけれど、覗かせてはくれません。
睡魔に呑まれる瞬間の猫を描きました。 猫だって眠い時は眠い。 夢だって見る。 だけれど、なぜ夢を見るのか、なぜ寝るのか、誰も知らなくても、そう決まっているのです。
ゾウは、孤高でありながら、孤独ではないように思います。 紙に焼き付けたゾウは、どこか孤高にこちらに問いかけるようにも思います。 孤独ではないよ。 あなたは孤独ではない。周りを見れば、きっと、沢山の助けてくれる手がある筈だから。
キタキツネが訴える瞳の奥にある想いを感じ取ってほしい。 それが今あなたが求めている答えだと、そんなことを感じてほしくて描いた作品です。
寒椿が、咲いている。 その様に、美を見ました。 美しさはどこから来るのでしょう。 美しいという、基準は何なんだろう。 しかしとにもかくにも、美しい。寒椿。
暗い靄の中を彷徨っていると、ふと声が聞こえた その声のする方へ向かっていたら、いつの間にか迷いが消え、穴を抜けていた 何か、誰かの声が、言葉が、自分の中の迷いに答えを導き出してくれた そんな瞬間を描きました
言葉は時に鋭く、傷つけたり傷つけられたり。 でも暖かくて、綺麗で、柔らかい一面も持っている。 そんな言葉に形を与えたらこんな姿なのではないかと想像して描きました。
ペットショップで売れ残っていた彼を見た瞬間、愛されてほしいと強く思いました。 愛すとか、愛されたいとか、一人では決して実現できない、満たされる感覚を、描きたかったのです。
猫が蝶を攻撃せず鼻先に止めている。 近づきたいなら、そういった気持ちが大事だと思うのです。 相手を思いやり、攻撃せず、見守る勇気。 そんな気持ちを表現しました。
植物に擬態したアンモナイト。それとも植物がアンモナイトに擬態しているのか。嘯いているのはどちらなのか。 現実にある目の前のものほど、非現実的で曖昧なものはない、私はそう思います。
首から落ちる椿。その魂を金で表しました。 魂は見えません。 実際にあるかもわかりません。 しかし、在るか、無いかなどくだらないことで、それを見れるか見れないか、そっちの方が余程大切ではないでしょうか。
ガクアジサイに降り注ぐ雨を銀で表現しました。
油断しきった猫。この絵が飾られる場所はきっと、安心できる場所であってほしい。 自分を愛し、他者を愛し、慈しみ、生きていける。 そんな気持ちを大切にしたい。
遊びたいのは、本当は見ている私たちの方だったりするかもしれない。 動物が気遣いできないと、誰が確認したのだろう。 他者のことはすべて謎。 ならばその目を見て、会話をするしかないのかもしれません。
人それぞれプライドや個性があって、だから反発することも共鳴することもあって、色んな形で関わっている面白さのようなものを、表現しました。
今目の前にあるものは、本当に真実でしょうか。 本当はキレイじゃなくて。 本当は傷だらけかもしれない。 本当は全然生きていなくて、死んでもいないかもしれない。 目の前のことを、自分の中の常識を、疑え。
Graffiato=傷だらけ 見た目がどんなにきれいでも、傷があるかもしれないことを想像しなければならない。 誰も心の内は覗けないのだから。
Graffiato=傷だらけ 見た目がどんなにきれいでも、傷があるかもしれないことを想像しなければならない。 誰も心の内は覗けないのだから。
不安に押しつぶされそうになる。 でも、自由が故に私は、不安なのかもしれず。 不自由さを抱えるから、不安なのかもしれない。 極彩色の黒い翼を纏い、空へ飛び立つ、不安。
À la mode=おしゃれ おしゃれをしてでかけるのは、見つけてほしい、ありのままの自分を見てほしい、決めつけないでほしい、そんな気持ちの、表れかもしれない。
Saluto del re=王の敬礼 品格をもって、生きること。 人間として大切なことは、きっと、姿勢に現れる気がしています。
「社会問題提起」世界で起こっている問題について、独自に考えた結果。
ドードーはもういません。それは人が犯した罪なのか、それとも、ドードーが直面した悲劇だったのか、それはわかりません。でも、人は何かできたはずです。それを今一度考えてほしいという想いを込めて描きました。
描かれている動物は、すべて絶滅危惧種です。 見慣れた動物のはずなのに、レッドリストに載っている。 その原因を思ったとき、もっと、生まれてほしい。ヒトの中に、もっと慈愛や他社への尊敬の念や、手前勝手な思いを断ち切る気持ちが、生まれてほしい。そう思い、描きました。
ワオキツネザルは、絶滅危惧種としてレッドリストに登録されています。 その理由を作ったのは、ヒトなのです。 狩りの的にしたり、密猟したり。 ヒトは、己を何者だと思い、他を、どう思っているのだろう。そう私は考えます。 守りたい。 願わくば、身勝手な意識から。
森に棄てられた車。 明らかに生きていないモノなのに、もの悲しさすら感じる、忘れ物。 森に棄てたら、目の前から消えたら、それは処理したことになるのでしょうか。 目の前からなくなっただけで、本当は何も、終わっていないのではないでしょうか。
私の人生だけ見ても、気温が10度は高くなっている。地球温暖化問題。このまま行ったら、生き物は進化して、もしかしたらこんな姿になるのかもしれない。 地球温暖化は、人間だけが悪いわけではないかもしれない。 だけど、やれる事はある筈です。 自分たちが、生き残るためにも。
私の人生だけ見ても、気温が10度は高くなっている。 その事実に驚きながら、何もできていない自分に驚く。 地球温暖化問題。 自分たちは果たして生き残れるのか。 生き物たちの適応力や圧倒的な生きる力に、私たちはついていけるのだろうか。 生き残こるために、何ができるのだろうかと、私は考えたい。